【BOΦWY】(ボウイ)はロックバンドとして、1981年に群馬県高崎市出身の氷室狂介、
布袋寅泰、松井恒松、深沢和明、諸星アツシと、サポートメンバーの木村マモルの6人によって結成された。
当時の所属事務所スタッフにより【暴威】と命名られた。
ちなみに、ほかのバンド名候補として【群馬暴威】と言うものもあったよだ。
しかし、バンド結成までには、数々の苦境があった…
1978年、当時の高校生バンドは、洋楽バンドのコピーが主流だったが、一部地域では、完成度の高いオリジナルバンドがあった…
群馬県高崎市、この町には特に目立つバンドが存在した。
当時はまだ高校生だった、氷室、松井と同級生(のちに暴威のギター :諸星アツシも在籍)の4人で結成したバンド【デスペナルティ】
当時まだ16歳だった布袋が結成した【ジギーリギー】(のちに暴威のサックス:深沢和明も在籍)
それと、土屋浩(のちの【BOΦWY】マネージャー)が結成した【ウィークリー】
この3バンドは有名だったそうだ。
彼らは、プロを目指し、数多くのコンテストの常連となっていた。
その後、布袋は【ウィークリー】の土屋をボーカルとして招き入れバンド名を【BLUE FILM】とした。
1979年、そんな彼らはヤマハ主催の『EAST WEST'79』関東・甲信越大会に出演し、【デスペナルティ】と【BLUE FILM】が決勝を争うことに。
審査の結果、【デスペナルティ】が見事に優勝し、全国大会に進出することになった。
『EAST WEST'79』決勝大会において見事入賞。
この時、演奏した楽曲[ブルー・シガレット・ラブ]は、後に【BOΦWY】で[CHU-RU-LU]として発表された。
これを期に上京し、音楽事務所【ビーイング】と契約。
しかし、当時の事務所社長の意向でバンドは解散させられてしまう。
解散後の氷室は、本名の「寺西修一」でバンド【スピニッヂ・パワー】のシングル[BORO BORO BORO]にコーラスとして参加した。
一方の【BLUE FILM】も『A'ROOK』本選会入賞を果たす。
1980年、氷室は第3期ボーカリストとして【スピニッヂ・パワー】に正式加入。
シングル[HOT SUMMER RAIN] アルバム[IN & OUT]で本格的にプロデビューし、テレビ番組『11時に歌いましょう』などに出演したが、ポップス色の強かったバンドの音楽性などが肌に合わず脱退し、その後バンド自体も解散した。
ちなみに、【スピニッヂ・パワー】の初代ボーカルは織田哲郎である。
松井は、バンド解散後、事務所の意向で織田哲郎のバンド【織田哲郎 & 9th IMAGE】にベーシストとして参加していた。
布袋は、プロテスタント系キリスト教主義の高校に通っていたが、学校側から髪型を指摘されたことが原因で中退してしまう。
その際、布袋は教師に「イエス様の方が僕より長い」と言い放ったという。
高校中退した布袋は、土屋と共に上京し、遊び仲間の中からメンバーを集め、高円寺や新宿など小さなライブハウスでライブを行っていた。
全てが思い通りに行かない日々を過ごす氷室は、7月5日の日比谷野音で、今は亡き故:忌野清志郎(ボーカル)の【RCサクセション】のライブを観た。
観客がみんな右手を挙げ、一体となっている光景を目の当りにし、もう一度バンドを結成すると決意した。
氷室は、高崎時代のライバルだった、当時18歳の布袋を話で六本木の『アマンド』に呼び出し、バンド結成の話を持ちかけた。
この時布袋は、突然の氷室からの連絡で「俺殴られるんじゃないかと思った」と後になって告白した。
別のバンドで活動していたが、地元で有名な不良少年の氷室が怖くて断りきれなかった。
こうして布袋と二人だけのバンドが結成され、同時に曲作りがはじまる。
バイト生活をしながら、お互いの曲を出し合い、その曲をアレンジしたりして、次々に曲が出来上がっていった。
この時に[IMAGE DOWN]や[NO N.Y.]などが出来上がっていった。
メンバーが二人しか居なかったため、ライブハウスにメンバー募集の張り紙をするが、めぼしい人材がなかなか居ない状況であったが、【織田哲郎 & 9th IMAGE】でデビューしていた松井が、二人の噂を聞きつけ、バンドに合流した。
気心知れた人間同士でと活動する大切さを知ることに。
昔のバンド仲間だった諸星(ギター) 深沢(サックス)も参加。
そして、氷室が嫌々参加していた「スピニッジ・パワー」で唯一気の合う木村(ドラム)が加入し6人編成でのスタートとなった。
メンバーも揃い、待望の1stアルバム[MORAL]のレコーディングが始まった。
しかし、歌詞のイメージが汚いという意見をレコード会社から出され発売延期に。
やむなくライブ活動を主体に活動を始めた。
1981年5月11日 ライブハウス【新宿ロフト】
ヴォーカル:氷室狂介 ギター、コーラス:布袋寅泰 ギター :諸星アツシ
ベース:松井恒松 サックス:深沢和明 ドラム:木村マモル
この6人で、デビューライブ【暴威LOFT FIRST LIVE】が行われた。
ちなみに、このGIG(ライブ)のオーディエンス(観客)は13人だったということ。
そして、そのオーディエンスの中に一人の男が立っていた。
後にメンバーとして加入することになる 高橋まこと である。
高橋は、アマチュア時代に数多くのバンドに参加したのち上京。
【RED WARRIORS】の木暮武彦のバンド【STRAIGHT】に所属していたこともあり、アマチュア界では、そこそこ名が知られていた。
ジャニーズ事務所のバックバンドとして有名な長沢ヒロ率いる【HERO】に参加するも諸事情によりメジャーデビューアルバムの録音が終わった時点で脱退していたが、知人に誘われて偶然見た新宿ロフトでの暴威のライブにインパクトを受け、ドラム募集していることを知ると即オーディションに参加した。
次のアルバムに向けて多数の曲を作成する最中、ドラムの木村が脱退してしまう。
後任には、オーディションでパワフルなドラミングを披露した高橋まことが正式加入した。
そのオーディションで、高橋が他の5人と初めて[IMAGE DOWN]を演奏した際、演奏開始のカウントがあまりにも大声だった為、松井が笑い出してしまい、演奏が中断してしまうことに、「きっとこの人はいい人に違いない」との理由で採用されたらしい。
ライブ活動も【新宿ロフト】を拠点に月1回ペースで実施。

1981. 5.11…………… 新宿ロフト
6.27…………… 新宿ロフト
7.16…………… 新宿ロフト
8.12…………… 新宿ロフト
9.17…………… 新宿ロフト
10. 9…………… 前橋ガルシア
10.10…………… 前橋ガルシア
10.19…………… 新宿ロフト
11. 3…………… 河口湖ホテルライブ
11. 6…………… 新宿ロフト
かなりパンクな感じで、過激な表現や派手なパフォーマンスなどが支持され、口込みで観客も増えていった。

1982年1月28日、バンド名を【BOΦWY】に変更した。
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